学校の『壁』を当事者研究する-体育から学校改造計画-レポート

松下祐樹(埼玉県立吉川美南高校教諭)
安本志帆(みんなのてつがくCLAFA代表)

未来の体育共創サミット2021のセッション「学校の「壁」を当事者研究する〜体育から学校改造計画〜」では、松下が感じている学校の「壁」の正体を明らかにするために、当事者研究を行いました。参加者の皆さんには共同研究者として、松下の具体的な事例について一緒に考えていただき、その受け止め方や感じ方の違いを切り口に学校の「壁」についての研究を深めていきました。

1. 講義の内容

当事者研究とは

向谷地生良氏(北海道医療大学、浦河べてるの家)によっておよそ20年前に始まった。爆発が止まらず困っていた一人の統合失調症をかかえる若者と「どうしたらいいかわからないから一緒に研究しよう」と対話した場面がはじまり

生きづらさや体験(いわゆる“問題”や苦労、成功体験)を持ち寄り、それを研究テーマとして再構成し、背景にある事がらや経験、意味等を見極め、自分らしいユニークな発想で、仲間や関係者と一緒になってその人に合った“自分の助け方”や理解を見出していこうとする研究活動。

  • 「その人」ではなく、「現象」を対象とすること
  • 従来の“心理教育プログラム”と異なる部分は「ともに弱くなる」プロセスを含んでいること
  • 当事者の側から「問題」とされる事象を捉え直すこと
  • 医療のように、困りごとを困りごととして捉える(基準は社会の側にある)のではなく、当事者の基準からとらえるように転換し、困りごとを自律探求していくこと
  • 困りごとを「問題」にしない。困りごとは自分の視点から何とかすべきものとなる。他人からどうすべきかを指示される「問題」でなくなる。能動的に自分の問題になって自分から何とかしようとするようになる。
  • 弱さの情報公開は他の人の弱さや苦労を引き出すことができる。

「教育」として当事者研究を行うことの意義

  1. 「自律探求」にあること
  2. 「共同体」で行えるという機会に恵まれること
  3. 教員や親、カウンセラーなど周囲の人も「当事者」と捉えるところにも教育的意義が認められる
  4. 「当事者」たちが対話をもって主体的に「自立探求」を行うことは、今の教育に一番求められること
  5. 「本人が自ら生活の質をあげる」を可能にする教育的実践

当事者研究の理念

  • 自分自身で、共に。
  • 弱さの情報公開
  • 経験は宝
  • 病気は“治す”よりも“活かす”
  • 「笑い」の力 ユーモアの大切さ
  • いつでも どこでも いつまでも
  • 自分の苦労をみんなの苦労に
  • 前向きな無力
  • 「見つめる」から「眺める」へ
  • 言葉を変える、振る舞いを変える
  • 研究は頭でしない、身体でする
  • 自分を助ける、仲間を助ける
  • 初心対等
  • 主観、反転、“非”常識
  • 「人」と「こと(問題)」を分ける
  • 「受動」から「能動」へ

≪質疑より≫

  • 結論はあるけどそれはその時の結論であって、継続して研究していくことが大事
  • その人を変えることは目指していない
  • 「わからなさ」が素敵なこと
  • 今、何が起きているか探求していく その結果、その人がどう思ってどうなっていくかはどちらでも良い
  • 良い意味でゴールのハードルが低い
  • 自分の問題を他の人と一緒に外在化していく取り組み その第一歩は問題を問題と思わない
  • 現象に名前(病名)をつけて、出来事として捉える
  • パーソナリティ除けて考える
  • 嫌はどこからきている嫌なのか見つける
  • 自分を分析し、自分のトリガーを見つけていく その部分と仲良しになる
  • この活動自体が遊び
  • 当事者の遊び心で気持ちを軽くしていく
  • 当事者研究を方法として捉えると、やってる風にはできるけど、結果的に本質と違うことをしてしまうことになる

2. 学校の「壁」の当事者研究

〇松下が感じているモヤモヤ

考えが違うにも関わらず、「足並みを揃えないといけない。」とやり方を強制されてしまうことが多い。例えば、体育で決められた体操と補強運動を大きな声を出して動きを揃えてやらないといけない。どの授業でもどの先生も同じことをやらないといけない。やらせていることが同じになるように求められる。
自分としては、向かっているところが重なっていれば良いのでは。表面上の活動が違っても良いのではと思う。

そういう中で、あれこれ同僚へアプローチしてきた結果、自分と考えが合わない人と自分が一緒だなと思う瞬間があった。

具体的には、
「これがここのやり方なんだ。」という方と「勉強していればこっちが正しいのは明らかでしょ」という自分
話し合っても平行線
「納得できない。なんでわかんないの?」と相手に対して思っているのは同じ。
「強制しないでください。」は強制しないことを強制しているのでは?
お互いの考えを押し付け合っているという点では同じなのではないか。と思うようになった。
ということ。

つまり、「自分は正しい」とお互いに言ってるだけなんじゃないかというところに困りごとがあることが見える化してきた。

〇魔法の言葉「教育観の違い」教育観って何?何が違うの?

・教師の信念 
・宗教、信仰 宗教上の違いみたいな話だと思う。
・教育という言葉を使っているけど洗脳だと思う。
・教育観というのは、世界のものの見方。

学校は村社会的なところがある。多くの人は同じめがねをかけているし、中にはめがねをかけていることを忘れている人もいる。そんなときに、違うめがねを差し出されても、「かけてみようかな」と思えない社会や風土があるんじゃないか。

教育観は違っていい。教育観を合わせる必要はない。それぞれがもっていて、交わることもない。
どうやってすり合わせるかというと、リスペクト。相手の気持ち、考え、信仰、宗教を尊重する。押し付けない。違いを認めて、私は私、君は君だから。ケンカしても、「あなたの意見はわかった。」終わり。交わらない議論だということが見えた時は、「そうだよね」と受容し、次に進んでいく。押し付けず、どうやって違いを認め合って、新しいものを創っていくかに注力する。
リスペクトがあれば押し付けない選択ができる。

とはいえ簡単に認め合えるものなのか。難しそうだ。自分の感情が治まらないこともある。

「普通」に思っていることが違うのに、違うという前提に立っていないから、「普通」を壊されることは気持ち悪くて怖いこと。考えたことがない、普通が好き、普通が安心する、批判的に見られない人は、「普通」を壊される行為が怖いのではないか。

普通を求める・普通が安心する・多数派が安心・マジョリティの人達に対して、「普通」を根拠にしていることにおかしさを感じている。

〇「壁」だと感じていることを「壁」という言葉を使わずに何という?

「みんな同じ」が自分にとっての「壁」。「同じ」の階層が違う。「同じ」を求められることが困る。
人が入れ替わっても変わらない。他の学校にいってもマイノリティなのか。と思う。

自分がマジョリティになったら勝ちかというとそうではないとも思う。そこが余計にモヤモヤする。自分がマジョリティになったら楽だし満足して過ごせるとおもうけど、それでいいのか。違いを認め合うって言葉では簡単だけど、自分がマジョリティになることを目指していたらそれは認め合うことにはならないし・・・。
違いを認め合うなんてことはできるのか。

〇「人が入れ替わっても変わらない」「足並みを揃えると安心」に名前をつけるとしたら何か?

・二人三脚症候群、ムカデ症候群
 誰と誰が縛られているのか。状況によって違う。

・日本の村社会安心病~安心病患者の大人は生徒に押し付けがちの巻~
 でも実は生徒もそういう教育を受けているので安心しているのではないか。

・妖怪そんたっくん

・子ども不在症候群
 だれのための教育なの?教員が揃えたくなっちゃう

・対処として - AKY(あえて 空気 読みません)
わかってはいるけど、あえて空気を読まず、生徒のことを考えて、目的意識をはっきりもって、その問題に取り組んで結果を出す。

子ども不在症候群の手前に「あるべき」「ねばならぬ」がある。
「べきねば」さん 出没率高い

実はそれいいなって思っているけどいけないから自分のやっていることを良いと思いたいという心理が働いているのではないか。

リスペクトしたあとに押し付け合わないこと認め合うことはなぜ難しいのか

〇松下が望んでいるのはどんな社会か。

押し付け合わない社会
お互いが大事にしたいことを大事にできるようになったら良いな。
まずは、自分がそうあるようにしている。「自分の考えは違う。」は言うけど「あなたの考えは間違ってる」は言わないようにしてる。

容認は危険。ことが起きてから後悔するのは誰か。リターンでマイナス報酬を受けるのが自分だけなら良いですが、学校はそうではない。違うことは違うという会話は必要。

我慢したり、いい意味で諦めたり、良いところを取りながらやっていくのがベスト?自分を曲げることは社会と折り合いをつけることなのか。ぶつかっていては子どもの為にならないのか。どうすれば子どものためになるのか。

〇処方箋みたいなものを考える。

学校をメインにしない。複数のコミニティーをもつことに必要性を強く感じる。

イライラした時は生徒と戯れる。生徒との教育談義が楽しい。

「依存先を増やす」。誰かを頼ることは悪くない。弱さの共有。自分が頼れるところをいかに見つけるか。頼れるところを増やす。たくさんあった方が良い。1つだけに依存すると共倒れになる。共依存。
共に分かち合う場は大切。

「みんな同じ」を求められること自体が「壁」
その「壁」は人が変わっても変わらない、動かない何かが空気の中にある。また、その人一人ひとりの心の中、マインドの中にもあるように感じる。
陰ながら応援すると声をかけてくれる人や「これはやってみたよ」といってくれる人もいて、それは自分を支えてくれる1つになっている。そういうときに、そういう思いを持っている人が表立って賛同できないことからも、空気の中にも「壁」があるのかなと感じる。

〇みなさんには「壁」ありますか。

・指導観の違い。ティーチングするコーチ。コーチングになっていないコーチ。そこに「壁」を感じる。
「みんな同じ」に通じる「枠にはめる」「型にはめる」に共通する。

・「できねば」から考える人 「できねば」はわかりつつ目の前の子から考える人のとらえ方の違いに大きな「壁」があるように感じる。

・「子ども」という言葉の使い方 1人と見てるか集団で見てるか その間に「壁」がある。
一般化してしまう恐ろしさ

・「壁」も感じるけど、それ以上に足を引っ張られる感があることがある。もはや「壁」ではなく、手が出てきている感じ。自分が大事にしたいことを、わけもわからず入ってきてぶち壊していく人。

・批判と否定の区別がつかない方を「壁」と感じる。批判しているのは次の物を生み出そうとしているのだけれど、ネガティブのとらえて「文句あるの?」という態度になる方がいる。一方が否定されたと思っていたら議論にならない。
「否定された」と思ってしまう文化は、長年培われているもので、難しい課題。「なんで」と聞かれただけで否定されたと感じてしまう文化がある。

「壁」は自分で作るもの 元々はそこにないもの

~アフタートーク~

生徒も大切だけど、自分の人生も大切。指導者が楽しんでいないと子どもも楽しくならない。自分自身が楽しくなるアプローチを探していく。「一生懸命」と「時間をかける」は違う。自分の時間をもつ必要はある。自分の人生、自分の時間をいかに自由に楽しく使うかを考えたら良い。

コミュニティー外の人と関わるのは楽しいけど、その分自分の組織を嫌いになっていくこともある。違うと思った人と一緒にどう創っていくか。

キャラを作ったもん勝ち。

どういう教師としてそこに存在するのか。に悩んでいるのではないか。相手というよりも自分に悩んでいるのではないか。

突き抜け切っちゃえばいい。「またか」と思われてもいい。

組織で動いているところは、しょうがない部分がある。だから、決まるまでの間に吠え散らかす。

全体の納得解は数の力は大きい。納得いかないことを言わないでずっとやり続けるのはこっちがしんどい。言うだけ言って、ダメならダメで、来年どうすると考えたり、子供の反応や生の声を記録して貯めておいて、それを子どもたちが発信できる技術を身に付けさせることが大事。

仲良くなる必要はない。お互いがお互いの出発点に立って、「あなたはそうなんだね。私はこう。」となって、キャラ立ちしていくしかない。その時に意外と起きるのが、相手がどう思っているか知らないまま判断してしまっていることがある。

多様性を認めようということ。みんな同じだと面白くないし、組織も成長しない。
苦手な人は自分にないものを持っている人 ヒントを持っている人
相手の胸に飛び込んでみるといろんな問題解決に繋がる
一番苦手な人にアプローチして攻略できたら楽になるかも
本質を見極めて、これは間違ってない、と自分の心に素直に生きていけば見えてくる。

明らかに時代遅れだよ まずインプットしてこいやっていうような人と対立したときに、それでもこの人は間違ってないかもと思わないといけないのか。令和と昭和で議論戦わせても・・・。
そういうときに相手を尊重するのは難しい。

気を遣ってはいる。相手によってアジャストする。だけど、自分の気持ちも大事にしたい。

嫌な人のことばかり考えている自分に気付いてからやめた。限られた時間で、なんで嫌な人の攻略法を考えないといけないんだ。時間の無駄。自分の時間をポジティブに使うかネガティブに使うかは自分次第。だから自分の壁は自分でつくっている。

物事を考えるトリガーがある。そのトリガーに気付いて切り替える。

対象になっているのは人なのか、仕事なのかによっても違うのでは。
自分は仕事にしか興味がないから、入ってこない人には興味がない。害を与える人は変えられないから、子どもをどうフォローするかを考える。仲良くするための時間を考えたら、そっちを対処する方が速いと思う。

3. 感想・考えたこと

はっきりとした答えが見えたわけではないが、これから考えていくきっかけをいただけた良い時間だった。

実はあんまり困っていないかも。「壁」ないかも。意外と今できることは自然とやっていた。

自分の場合、「わかってもらえないこと」「孤立すること」には困っていなくて、自分が正しいと思うことに制限がかかることが困る。周りに理解されなくて良いし、期待もしない。
→だけど、そう思っているから周りを巻き込むことができず、数の部分でいつまでも変わらないのかも。

組織にいる以上仕方がないと思えることもある。
そこをどうクリアしていくかは自分次第。他の人の力も借りながらどうしていくかを具体的に考えて動けばいいだけ。

以上のように考えると「壁」はないとも言える。自分ではもうどうにもできないと思ったときに「壁」が現れる。

私にとっての処方箋は、
・外での繋がり
・ちゃんと本質を見極めてやっていることであれば自分を信じる
・「日本の村社会安心病」の人に接したときに、呪文「AKY(あえて、空気、読みません)ひとり あざす!」を唱える。

残った問い(引き続き考えていく)
・なぜ「壁」を作りたくなってしまうのか。
・「周りに理解されなくていい」は自分にとっての「壁」ではないが、相手にとっては「壁」をつくられていることになっているのではないか。
・ 積極的に周りを巻き込もうとした方が良いのか。

(松下祐樹)

セッション紹介

セッション名
学校の「壁」を当事者研究する〜体育から学校改造計画〜
セッション内容
『これがここのやり方です。』『どこでもやってることだから。』『足並みを揃えてください。』 学校で「壁」を感じる場面に数多く出くわします。体育授業を実践する上で同僚に感じる、考え方の違いという「壁」もあります。この「壁」の正体が何なのか、学校の「壁」について対話をしながら探求し、体育の側面から学校を当事者研究したいと思います。そして、参加者の皆さんと共に学校改造計画にチャレンジしてみたいと思います。
講師
松下祐樹氏
埼玉県立吉川美南高校保健体育科教諭・硬式野球部顧問 一般社団法人未来の体育を構想するプロジェクト理事 石川県七尾市出身 楽しく、学びがあり、考える保健体育の授業を目指して試行錯誤している。学校で働く中でやりづらさを感じており、それを生み出している「壁」は何なのか、「壁」の正体に迫りたいということを考えている。また、学校や教員は閉鎖的で変化に対応できていないようにも感じており、危機感を感じている。

安本志帆氏
みんなのてつがくCLAFA代表。元幼稚園教諭。幼児教育を通して人間教育の観点から哲学対話を捉え、幼児から大人まで様々な人と多様なテーマで哲学対話をおこなう。愛知県内、福岡県内での哲学対話、全国の美術館、小中高大学で外部講師として哲学対話のファシリテーターを務めるほか、異業種間の哲学対話の企画運営や当事者研究、哲学対話の個人セッション(哲学相談)もおこなう。著書に『こどもと大人のてつがくじかん』(LAND SCHAFT)。