“教室”での”安全”な”性”の”対話”は可能なのか?-安本志帆氏-レポート

未来の体育共創サミット2021で、安本志帆氏(みんなのてつがくCLAFA代表)に登壇いただき、セッション「“教室”での安全な “性” の “対話” は可能なのか?」が行われた。以下、講師である安本志帆氏によるレポートである。

1. セッションの概要

 学校の中で対話をすることがどの教科でも求められるようになった昨今において、保健体育も例に漏れず、性について学校で論じる必要性に迫られている。たしかに一見すると、体を動かすことに限らず、健やかな身体の成長を目指す保健体育において、性を題材に扱うことは望ましいように思われるが、しかしながらさまざまな背景を持つ児童、生徒たちのことを鑑みるに、授業を受けないことを選択できない児童、生徒たちにとって、性についての対話を義務教育という場において行うことが適切なのかどうかについて、その実現可能性が問題となる。

 ところが、このような問題設定は、危険な了解が黙殺されている。というのはここにおいて特定の価値観が称揚されていることに注意が払われていないからだ。すなわち、対話概念が暗黙に歓迎されてしまっていることが、対話を実践するうえで最も大きな障壁となっているということに無自覚であればあるほど、対話の威力を誤認し、対話という営みを侮蔑することにつながりかねないからだ。そこで本セッションでは、対話概念が胚胎する危険性を白日の下に晒すべく、先鋭な題材を基に対話を行った。なお結論を拙速に欲しがるという態度はここでは望まれない。なぜならそれは、問いの立て方を、あるいは問いそれ自体を問うという再帰的な哲学対話の営みを毀壊するからだ。

 したがって以下に抜粋して記録するセッションの内容には、結論がない。問いがさらなる問いを再生産する連鎖の報告となる。

2. セッションの内容(抜粋)

  • アウティング

    アウティングは、命の危険がある場合を除き禁止されている。アウティングとは、本人の同意なく情報を頒布することであり、この人にだったら共有しても大丈夫だろうという慢心の連続によってセンシティブな情報が拡散されることで、結果的に児童・生徒を傷つけることになる。実際に、教員の指導方針や研究活動により児童・生徒の後の生きづらさを強めてしまった事例を示した。
  • 会話と対話

    会話は共感ベースなのに対して、対話はわからないことを言葉にしていく営みであるというように、両者を区別して捉えることもできる。とはいえもちろん、価値観やバックボーンの違いがある人々の間で、対話ができるのかということも問いに付されることになる。さらに、例えばバックグラウンドが違うとはどういうことなのかといった、問いが前提視している内容についても質疑が飛び交った。
  • 否定と批判

    対話において批判は受け入れられてもよいのではないか。とはいえ批判とは、真摯に話を聴いて一緒に考えた結果としての疑問という、狭義の意味において捉えられることもあるだろう。
  • 深まる問い?ダメな問い

    下記四つを題材として意見を出し合った。
  1. 「恋と愛はどう違う?」
  2. 「友達からカミングアウトされたらどのように言うのが良いだろう?」
  3. 「障碍者は排除すべきか?」
  4. 「コロナ禍において老人を死なせることは何が悪いのだろう?」

    例えば、初めから恋と愛を両方とも良いものとしてしまうことには危うさを感じるという題材固有の見解が提出されるのみならず、幸いなことに次に挙げるようなより抽象度の高いそれらもみられた。例えば、問いの前提をどのようにとらえるかが大事なのではないか、問いの背景が浮かび上がってくるような問いが深まる問いなのではないか、センシティブな話題について避けることは果たして配慮と言えるのかどうか、問いの内容と問いの立て方の両面から検討をする必要があるのではないか、といった疑念が交わされた。さらには、「深まる問い」と「ダメな問い」という二極で問いを考えようとする姿勢こそが批判されるべきではないか、といった題材自体に問いかけるような、正鵠を射るものもあった。というのも、問いの内容や立て方の問題にすべてが帰結されるはずもなく、教師の着眼点次第でこれらの問いは如何様にも変化しうるものだからだ。どこでどのように使うか、どのように切り込んでゆくかで、主体的な探求として大いに機能するものもあれば、暴力的な場へと一転させてしまうものもある。これらの問いをどのように扱うか、どのように主体的な学びに落とし込んでいくかについての安本のエピドードも少しお話した。

3. 参加者アンケート

・「性」のみでなく、「問い」についてものすごく考えられました!! 安本さんのような方に学校に入っていただき、子どもたちと「対話」について一緒に考えたい(ただの願望です(笑))。

・身の回りの性差や考え方の差は無いと勝手に前提を作るのではなく、誰を相手にしても問題ないような対話や問いになるように吟味して行う必要があると勉強になりました。

・まず、今回非常に有意義な時間を過ごせたことに感謝申し上げます。「深まる問い、ダメな問い。」については自分だけでは気付けなかった気付きが話し合うなかで散りばめられていてとても勉強になりました。

・問いの前提や大人の倫理の常識の押し付け、恋と愛の問いではアセクシャルを排除している(可能性につながる)ことになるなど、今後の課題についても考えさせられるきっかけに繋がりました。最後に紹介して頂いた内容も興味深く、またこのような機会があれば是非参加したいと思いました。ありがとうございました。

・対話とは何か?という場面にぶち当たっていたので、とても勉強になりました。私は教職員ではありませんが、いろいろ考えることができました。

・参加者だけでなく自分とも対話できた時間でした。授業の中での「問い」を考える時、前提と言葉を多面的に検討したいと思いました。問いを考える時に気をつけなければいけないこと(チェックリストみたいに単純ではないかもしれませんが)をぜひ教えていただきたいです。

・良かれと思ってやったことが逆効果という以上に生徒にとってのリスクになっている、という視点に気がつくことができて本当によかったと思いました。ブレイクルームでのディスカッションも短い時間ながらとても有意義でした。今後も考え続けていきたいテーマです。

4. 総括

「“教室”での安全な “性” の “対話” は可能なのか?」という題目のセッションだったが、題目にある問題含みなキーワード、特に対話とは何かについて、活発に不明点が挙げられた。教室での安全な対話は「性」に限らず、教室内にいる何某かの当事者への想像力をどこまで働かせられるかが鍵となるが、その想像力をよりリアリティのあるものにするためにも、自分の見えている世界を世界の全てだと思い込まず、様々な人と出会い、常に自分の世界観をアップデートしていくことの必要性や重要性が感じられるセッションとなった。その上でも現状おこりうる課題は山のように残ったが、それらこそが対話の成果でもあるから、上記それらをもって活動報告としたい。

(安本志帆)

セッション紹介

セッション名
“教室”での安全な “性” の “対話” は可能なのか?
セッション内容
対話が万能かのように言われることもある昨今、学校でも「性」をテーマに対話をすることが求められています。しかしながら、センシティブな内容を含む「性」の話を、様々な子がいる「教室」で安全におこなうことは可能なのでしょうか。無知による偏見や無自覚な差別がその場にあった場合、それは「対話」と呼べるのでしょうか。全ての児童や生徒にとって安全な場が求められる対話の空間において、教員が配慮すべきことはどのようなことなのでしょうか。皆さんと一緒に対話をしながら考える時間にしたいと思っています。
講師
安本志帆氏 
みんなのてつがくCLAFA代表。元幼稚園教諭。 幼児教育を通して人間教育の観点から哲学対話を捉え、幼児から大人まで様々な人と多様なテーマで哲学対話をおこなう。愛知県内、福岡県内での哲学対話、全国の美術館、小中高大学で外部講師として哲学対話のファシリテーターを務めるほか、異業種間の哲学対話の企画運営や当事者研究、哲学対話の個人セッション(哲学相談)もおこなう。著書に『こどもと大人のてつがくじかん』(LAND SCHAFT)。